■最初のトロリーバス体験はモンゴル
生まれて初めてトロリーバスを見たのは、1991年春の
モンゴルの首都ウランバートルだった。
当時のモンゴルは経済状態は極度に悪化していた。
ひどい状態だった。
近年のようなゾド(寒波による大雪)ではなかった。最大の
援助国であったソビエトからの援助がなくなったことによる
経済混乱によるものだった。
日本の新聞には「モンゴルで飢餓!」と伝えられていた時期だ。
春のために野菜はほとんど出回っていなかった。家庭菜園で
作られたような、ちいさなプチトマト、硬くて渋いキュウリ、
半分腐ったジャガイモ。ロシアから送られてきた、ご~く
薄い酢に浸かっている紫キャベツの缶詰。
1ヶ月ちょっといて、食べた野菜はそれだけ。それらすらも
市場でみることは難しかった。
国内線の飛行機は墜落していた。原因は粗悪な燃料だったり、
航空会社が燃料をケチったため、燃料不足で飛行機が堕ちていた。
燃料不足で地方にも行けなかった。首都のウランバートルから
地方には、元々長距離バスも走っていた。しかし燃料不足で
バスが出ていなかった。
地方からの物資が集まるトラックターミナルはガラガラ。
トラックも走っていなかった。ガソリンスタンドには長蛇の列。
市内の外れにある火力発電所も、燃料不足とメンテナンス不足に
より、4基あるタービンのうち、なんとか動いているのが1基、
時々なんとか動くのが1基、残りの2基は動いていないと聞いた。
タービンの調子が常に悪いので、1日中タービンが出すジェット
エンジンのような音が街中で響いていた。
「グォグォオオオオーン!」
夜になるとその音はますます大きく聞こえ、夜遊びするような
歓楽街もほとんどないウランバートルの静かな夜をぶち壊して
いた。
燃料が粗悪なのか、時々発電所から爆撃音のような爆発音も響いていた。
「どっかぁ~ん、どっかぁ~ん、どっかぁ~ん」
当然のことながら停電も多かった。トロリーバスの路線も結構あった。
確かハンガリー製の車だったと思う。
「うぃぃぃぃ~ん」
「ぅぅうううううう~ん」
「ぷしゅー」
人々は諦めてゾロゾロ降りる。
そんな日々。
■昔から疑問に思ってました
前置きが長かったが、このときには既にトロリーの分岐器に
対する疑問は持っていた。
今と同じく、トロリーバスが分岐器を通りかかるのを
ずっと見ていた。
やっぱりというか、分岐器もメンテナンスが十分にされて
いないためか、よくパンタグラフが分岐器で架線から
外れていた。
外れると、運転手がダッシュで車体の後ろに走り、
パンタグラフに括りつけられているロープを上手く
操作して、架線にはめ直す。
しかし分岐器の構造については誰に聞くわけもなく、
「どーなってんだろー」と思いつつ帰国してしまった。
当時市内のバスは最低区間が1トゥグリク≒3円(当時)。
その運賃の安さから、当時ウランバートル市内に走っていた
27路線(くらいだったと思う)を全線完乗を果たしました。
小さい街だし、暇だったしね。
大学の日本語学
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